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第十六話 山の理

Author: 森村征爾
last update Petsa ng paglalathala: 2026-10-21 17:12:10
若いメスの匂いは、山の下から確かに流れていた。

近い。

木々の間を抜け、静かに木に囲われた巣へ向かう。

風は我の方へ流れている。まだ気づかれてはいない。あと少しだった。その瞬間、

山が裂けた…。

轟音が響き、胸へ強い衝撃が走る。何が起きたのか理解する前に、熱いものが身体から吹き出していた。

な、なんだ…。

次の瞬間、また轟音。肩が砕け、脚がもつれる。

熱い…。

綿毛に身体が沈みかける。

木々の向こうには、何匹もの二本足が並んでいる。

なにをした…。

全員が長い筒を構えている。その中央には、老いたオスが立っていた。

我は咆哮した。

だが三つ目の轟音が腹を貫く。身体から力が抜けていく。それでも前へ出ようとした。若いメスの匂いが、まだ鼻先に残っていたからだ。だが脚は動かなかった。

身体が崩れる…。

我は岩肌へ身体を預けながら、ゆっくり呼吸を繰り返した。

息が浅い。

白い綿毛が視界へ落ちてくる。風の匂いが薄れていった。その時、不意に親の匂いを思い出した。暗い穴、温かい身体、白い汁。

胸の奥が静かになっていく。もう寒くなかった。やがて呼吸は止まり、山は静けさを取り戻した。

二本足たちはしばらく動
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    若いメスの匂いは、山の下から確かに流れていた。近い。木々の間を抜け、静かに木に囲われた巣へ向かう。風は我の方へ流れている。まだ気づかれてはいない。あと少しだった。その瞬間、山が裂けた…。轟音が響き、胸へ強い衝撃が走る。何が起きたのか理解する前に、熱いものが身体から吹き出していた。な、なんだ…。次の瞬間、また轟音。肩が砕け、脚がもつれる。熱い…。綿毛に身体が沈みかける。木々の向こうには、何匹もの二本足が並んでいる。なにをした…。全員が長い筒を構えている。その中央には、老いたオスが立っていた。我は咆哮した。だが三つ目の轟音が腹を貫く。身体から力が抜けていく。それでも前へ出ようとした。若いメスの匂いが、まだ鼻先に残っていたからだ。だが脚は動かなかった。身体が崩れる…。我は岩肌へ身体を預けながら、ゆっくり呼吸を繰り返した。息が浅い。白い綿毛が視界へ落ちてくる。風の匂いが薄れていった。その時、不意に親の匂いを思い出した。暗い穴、温かい身体、白い汁。胸の奥が静かになっていく。もう寒くなかった。やがて呼吸は止まり、山は静けさを取り戻した。二本足たちはしばらく動かなかった。誰も言葉を出さず、綿毛へ沈んだ巨体を見つめている。やがて老いたオスが煙を吐き、白く霞む山を見上げた。「これだけ捜索隊や捜索ヘリを飛ばしたら、もう山に生き物はおらん…。」若い者たちは黙ったままだった。老人は静かな声で続ける。「鹿も戻らん。魚も戻らん。生き物は帰らぬな…。」風が吹き、雪が舞う。「このクマを追い詰めたつもりじゃったが…。」老人は足元の巨体を見下ろしながら呟く。「本当に追い詰められたのは……このクマか?、わしら人間か?」誰も答えない。ただ風だけが、ヒグマの毛を揺らしていた。老人は目を細め、小さく呟く。「山の理は、いつも正しい」長い沈黙のあと、老人は空を見上げた。「山に喰うか、喰われるか……次に喰われるのは…人間じゃな。」       完

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    巣穴へ戻っても、深い眠りは来なかった。肩の傷は浅い。舌で舐めれば血は止まり、肉もすぐ塞がる。それでも身体の奥が静まらない。目を閉じるたび、あの老いたオスの目が浮かぶ。小さく、老い、力も弱った二本足。喉へ牙を入れれば骨ごと砕けたはずだった。 それなのに、我は退いた…。白い綿毛が巣穴の外で音もなく降り続いている。山は静かだった。木々も、岩も、水の流れすら眠っているようだった。だが、我の内側だけが荒れていた。 腹の奥が熱い。 落ち着かぬ。 巣穴の中を歩き回り、壁へ身体を擦りつけても消えない。爪で土を掘り返し、唸り声を漏らしても静まらない。何故だ。何故、あの老いたオスから目を離せなかった。何故、我はあの場で飛びかからなかった。 思い返す。長い筒を向けたまま、一歩も退かなかった二本足。肩は震えていた。吐く息も乱れていた。畏れていたのだ。鼻先へ流れた匂いが、それを教えていた。だが、それだけではなかった。あの老いたオスの匂いには、別のものが混ざっていた。覚悟。そして、殺意。我を殺すという意思。喰い物が、牙を向けてきた。その記憶が、胸の奥を掻き乱している。低く唸りながら、我は巣穴の入口へ顔を向けた。白い綿毛の向こうに、暗い山が広がっている。この山は我の縄張りだ。縄張りへ入った生き物はすべて叩き潰した。四本足も、牙を持つ獣も、水辺の主さえ退けた。二本足も何匹も裂き、喰らった。逆らうものなど、もう居ないはずだった。それなのに。あの老いたオスだけは違った。身体の奥がざわつく。そして、不意に思い出した。まだ身体が小さかった頃。水辺の主と向かい合った時のことを。巨大な影。濁った息。睨まれただけで脚が動かなくなった。喉の奥が震え、逃げたいのに動けなかった。あの時の感覚。我はずっと忘れていた。だが今、同じものが胸の奥で蠢いている。違う。違う違う違う。 我は山の主だ。二本足など喰い物だ。 それなのに何故、胸がざわつく。何故、牙が疼く。若いメスの匂いが鼻の奥によみがえる。甘い匂いだった。まだ山の畏れを知らぬ肉。あの柔らかな首へ牙を沈める瞬間を想像しただけで、腹の奥が熱くなる。喰いたい。あの肉を喰いたい。だが同時に、老いたオスの目が浮かぶ。真っ直ぐ我を見ていた目。逃げぬ目。殺す覚悟を持った目。我は唸り声を漏らし、巣穴の奥へ爪を叩きつけた。土が弾け、乾いた石が転がる。それでも静まらない。眠れな

  • 深山の王   第十一話 畏れの匂い

    二本足のメスが山へ一匹で入る時、もう迷いはなかった。風下へ回り、気配を沈め、逃げ道を塞ぐ。叫ぶ前に首へ牙を入れれば終わる。何度も繰り返した狩りだった。肉を喰らったあとも、すべては残さない。手や足、頭を山の奥へ運び、別々に埋める。四本足は匂いを辿る生き物だ。ここを通った、ここに居た。そうして山へ匂いを撒き散らしてやれば、追ってきた二本足はその痕跡を拾いながら山へ踏み込んでくる。そして、山を畏れる。それが心地よかった。鹿も魚も、もう喰えない。腹は満ちる。だが舌が喜ばなかった。二本足のメスでなければ。今では、我を見て固まるものが良かった。逃げようとして転ぶもの。震えながら息を漏らすもの。涙と汗で匂いを濃くするもの。その畏怖と絶望に満ちた肉は、他の生き物とは違っていた。牙を立てる前から、美味かった。畏れの匂いは、なんと甘美なのだろう。山を移動しながら、我はあの匂いを探していた。そして見つける。喰い損ねた、あのメスの匂いを。忘れられぬ二本足だった。匂いの先には、古い木で囲われた二本足の巣があった。獣の皮と煙の臭いが染みついた、長く山に居る二本足の巣だった。綿毛に埋もれかけた小さな巣。その中に二匹いる。 若いメス。そして、歩みの遅い老いたオス。我は岩陰へ腹を伏せ、風を嗅いだ。若い、甘い匂いだった。以前喰ったどのメスとも違う。まだ山の畏れを知らぬ匂い。警戒を知らず、怯えを知らず、生きている匂いだった。やがて若いメスが巣から出てきた。木桶へ水を移しながら、小さく鼻歌のような声を漏らしている。白い息が冷えた空気へ消えていく。周囲を見ない、警戒もない。喉が鳴った。ここから駆け下りれば、すぐ届く。だが巣の中には、老いたオスがいる。そして、長い筒の臭い。以前なら、それだけで離れていた。だが今は違う。二本足への畏れは、もう薄れていた。あの水辺の主よりも我は大きくなった。縄張りを奪いに来た生き物もすべて退けた。二本足すら何匹も裂き、喰らった。負けるはずがない。崖を下り、音を殺しながら木々の間を滑るように進む。白い綿毛が深く脚を沈める。それでもゆっくり距離を詰めた。若いメスは、まだ気づかない。あと少し。風向きは我へ流れている。 その時だった。巣の戸が開き、老いたオスが姿を現した。 気づかれたか…。だが構わない。あのような小さき二本足など、問題にならぬ。老いたオスは長い筒を手にしたまま、真

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